コトの発端として、電車男のテレビ版を挙げておく。元はといえばこいつがほとんど悪い。ここら辺の流れがなければ、テレビにここまで勘違いしたメイドさんが蔓延ることもなかったし、世界はもっと平和だったはずだ。
2005年末から2006年明けにかけて、テレビでは信じられない光景が繰り広げられた。クイズ番組だろうが歌番組だろうがお笑い番組だろうが所構わず、ちょっと豪華な料理が出たりマニアックなクイズの正解が出されたりする度に、"今話題の" 萌えの具象化として「アキハバラ」という地名とその代表メイドさんが登場した。確かに、短いスカートから覗く太股や強調される胸は、テレビ的に映えるものがあるのだろう。テレビを抜かせばメイドさんの活躍の場の多くはエロゲーや可愛らしさメインの漫画であるため、コスチュームとしてそういう使われ方をするのは強くは反発できない。アキハバラも、そこに昔から通っていた一部の人の意には沿わないだろうが、そういう方向の観光地として発展しつつあるのは事実だ。そもそも、萌えが何たるかを全て理解している人など未だ存在していない。ただ、これらの所業は、確実に誤解を生んでいる。このエントリを読みに来ているような人には今更なことではあるが、あえて声を大にして確認しておきたい。萌えとは、少なくとも、メイドさんがネコみたいなポーズをして「にゃんにゃん」言うことでもなければ、アンミラ的なウエイトレスの延長として「おかえりなさいませ」などとちょっと言葉を替えて叫ぶだけで生まれるような代物でもない。
なぜ、テレビでの "萌え" がこの方向に進んだのか。話は遡るが、2003~04年にかけ、めちゃイケのエンディングテーマとして大塚愛の『さくらんぼ』がヒットした時、てっきりこれを基点として萌えが世間に紹介されるものと思った。歌のベクトルが、あからさまに当時ネット上で巨大なブームとなっていた
電波ソングのそれと同じだったからだ。世間の嗜好の、少なくとも一部は萌えのそれに近づいたのだと感じた。折しも、WOWOWで放送された『おねがい☆シリーズ』のOP&EDやアルバムとしてKOTOKOの曲がメジャーデビューを果たし、カラオケでもそういう曲目が歌えるようになりつつある状況だった。しかし、それからしばらく、テレビで取り上げられる "萌え" とは、「オタク」と呼ばれるなんだかネクラそうな奴等がジオラマ的に作り出している、自分だけの閉鎖"世界"として紹介されるだけであり、その中にある筈の、フツーの人にある恋愛感情との差異にあたる感覚ついては考えられることすらなかった。ようやく上記のドラマでヲタの私生活が(マスコミの恣意による極端さのある)偏見的な視点からではなく紹介されはしたが、あれの中で実際のところ、萌えは伊藤美咲のメイドコスプレではなく、堀北真希のツンデレ妹だった。
現在のテレビの一部では、萌えと『言う』『叫ぶ』ようなことが、多少のブームになっている。いちいちヲタ風味の奴をネタとして弄るよりは遥かに楽だからなのだろうが、この流行は、どうせそのうち静まるだろう。だが、上記の様な誤解が残る可能性は高い。別に、テレビがバラエティの要素として勘違いしたままなのは大概構わないのだが、それがアニメや漫画、ゲームの業界に "逆輸入" されることはどうしても避けたい。そんなの危惧するまでもない、という意見もあるかもしれないが、今後その他のメディアが同じ過ちを繰り返さないようにするためにも、ここで考察しておくことは決して無駄ではないと考え、以下、意見をまとめる。
もう一度、提起しよう。なぜ、テレビという大手メディアの紹介する "萌え" が、この形になったのか。それは、一般的な人が持つ感覚が、ネット上やオタクな業界に毅然として存在する『萌え』を、今のところ理解できないからに他ならない。メディアというのは人によって成るものである以上、情報が事実とは違って伝えられるものであり、そのパターンは大きく分けて二種類ある。一つは、某新聞社などが未だ止めようとしないニュースの偽造であり、これは大衆の意見や思想などを自分の思惑通りにしようとする故である。そしてもう一つは、事実をそのまま伝えても、それを受け取る側が理解できない(と、送り手が勝手に想像する)ため、伝えたいそれに似た別の何かを引き合いに出し、送り手が自らの手で調べて得た面白い情報・発見であると "みせかける" パターンである。これは感覚のバインドとでも言うべきもので、新しいものを大衆に伝える役割を持つはずのメディアが、そのポテンシャルを大衆により縛られるパラドックスを示す。昨今のテレビでの萌えの紹介を見ると、その扱いが、少し前ではオタクを社会不適合者として見下す風潮が大半を占めるものであり、また最近では、メイドコスの女の子が20年前のアイドル売り出し的な雰囲気か、深夜番組に出ていた風俗嬢などと大して変わらないことがわかる。つまり、メディアは未だ萌えを料理しきれず、なんだか歪なものとして氷山の一角を肥大させて利用しているに過ぎないのだ。
さて、なんだか話がいつも以上に飛躍してきたが、ここから更に少しジャンプする。付いてくる気合いのない方は、近所のメイド喫茶に行ってコーヒーでも飲んできてから読むとよいでしょう。以前もここのエントリの一つで
紹介したのだが、外国のある区域で、漫画やアニメを観て育った若者らが、その欲情をぶつける対象として漫画やアニメを選ぶという
現象が確認されている。これはつまり、漫画やアニメに対しそういう感情を持つには、子供の頃からそれに触れているなど、ある程度の "過程" が必要になる可能性が高いことを示している。このことに関しては、実体験として感じている方も多いだろう。そしてこれは、言い換えれば、そういう何らかの "過程" がなければ、こういう特殊な感情を得られるセンスを持つことが出来ない、或いは、勘違いして受け止めるしかない、と考えられることを示している。
進化には、過程が要る。期間の大小は違えど、それは動植物の生態に限らず、人の感覚もその法則に従っている。そして、進化は枝分かれするものだ。一般人の多くが萌えを理解できず、それらと違う自分たちがそれを感じることが出来るからといって、どちらかが優位になるとか言う話ではない。ただ、違う道を歩んでいるに過ぎないのだ。仮にそれが「他よりも要素が一つ増えている」という意味で「進化」と呼べるとしても、その事実が有益であるかどうかは誰にもわからない。もしかしたら、メディアという生き物が、これと同じように進化し、いつか萌えを理解する日が来るかもしれない―――実際、泣きゲー的な雰囲気を持つ映画が数多く出ているし、一時的とはいえ電波ソングも流行ったし、コスプレは新旧問わず人気があるしで、要因としての決定的な不足はない―――のだが、その時はまあ、もう少しは今よりこっちの世界での萌えの解析・発見が進んでいるだろうし、萌えに次ぐ新たな感覚も生み出されているだろうので、その時はその時で態度を考えましょう、といったところで、貴方も萌えについて考えてみませんかと勧誘しつつ、またいつか。
管理人。