先日、たまたまラジオを点けたら聴こえてきたのだが、2時間くらいの番組でライトノベルの特集を延々とやっていた。たまに聞くシブい声のDJさんが「ツンデレ」とか普通に喋っていてかなり笑えた場面などあって、でもやはりそこで話題になっていたのが「何を以ってライトノベルと呼べばいいのか」。初めの部分では、『巨人の星』の星飛馬並みに気合の入った小説家のタマゴに編集者が肩の力を抜いてライトノベルを書いてみないかと薦める(でも上手く書けない)コントがあったり、「家族のためにお弁当を作って、そのついでよ! あんたの為じゃないんだからね!」と叫ぶ女の子でツンデレを説明したり、『キノの旅』で有名な時雨沢先生のインタビューもあったり。で、やはり分かりやすく説明するために、ライトノベルとは「イラストと文章の融合が云々」と誰だか分からない女の人に語られている、のを聞きつつ、ふと気付く。もしもこの世にライトノベルがなかった場合、年齢指定の無い作品のカテゴリの中で、萌えキャラは果たしてどこに住めば良いのか?
さて、モノの本によると、ライトノベルという名前を付けたのは、2ちゃんができるよりも昔のネット上のとあるコミュニティの管理者の方だそうで、曰くの所、討論用の掲示板の名前をつける際に、当時生まれつつあった「ヤングアダルト」という呼び方でも、ヨーロッパで使われていたハイティーン向けな感じの「ジュブナイル小説」でもなく、今そこに生まれつつある何らかのカテゴリに対し「ライトノベル」と呼ぶに相応しそうだからつけた、のだそうだ。ちなみに一歩間違えれば「ニートノベル」という名前の可能性もあったらしく、その辺の詳しい事情は
こちらの本で。ともあれ、「Y・A」だの「ジュブナイル」だの、それを読んでいない外側の誰かによって勝手に付けられたような印象を受ける呼称ではなく、あくまでも当事者の立場からのイメージによって名づけられた「ライトノベル」は、その後多くの人たちに受け入れられ、今日の地位を獲得しているのであります。うん、よかったよかった。
で、ここで最初の段落の問いに対する答えなのだが、言ってしまえば「アニメや漫画があるじゃん」であっさり終わる。「萌え」という言葉自体、その起源は諸説あるものの、だいたいがアニメのキャラ名から取った、というものだし、今人気の『涼宮ハルヒの憂鬱』も、ライトノベルからよりもむしろ、アニメで人気が出て、ED曲がオリコン初登場5位になったりしながら、ファンが漫画版、さらに原作の文庫版へ戻って読む、という流れになってヒット作となっているわけである。おいおい、じゃあ『忘レナ草』からののいぢ先生ファンの俺の立場はどうなるよ、と魂で叫びつつ、実のところ第一巻の発売当時は『ドクロちゃん』を優先してしまいました。ごめんなさい。
話を萌えに戻そう。昨今のライトノベルを読む限り、というか本屋に並んでいるのを見ただけでも一目瞭然なのだが、それに分類される作品のほとんどに女の子が出ている。そして、昨今のライトノベルを読む限り、同じ種類に分類されそうなアニメやマンガにも増して、そこで描かれている少年と少女の一連の関係が、「恋愛」と呼ぶべきなのかそれとも単に「萌えシチュ」なのか、正直言って区別がつかない。もちろん「恋愛」と「萌え」との区別をハッキリさせない以上は、この主張には大して説得力がないわけで、それはまたそれで別の買いに回すことにする。ここで重要なのは、もしかしたら「ライトノベルでは "恋愛" は書けないんじゃないか?」という疑問である。はい、ここからやっと今回の主題です。
小説を書くとかシナリオを書くとかにおいて、かなり重要なことの一つとして「何を表現しないか」というのを、それを書く人間は自覚しておかなくてはいけない。それはSFだろうとファンタジーだろうと同じで、例えばSFモノを読んでいる時、ワープの場面で「陽子と中性子のエネルギーがどーのこーのなのでワープすることに物理的な矛盾はありません」とかいちいち書いてはいけない。或いは、ポケ○ンとかの特殊な生き物が存在している世界で、どう見ても人間以外の生き物は全て可愛いデザインの奴らしかいないのに、食事の場面で旨そうなステーキが出てきて「これはどのモンスターを殺して食べてるんだろう?」とか、考えたら怖いことは表現しないのが重要なのである。それと同じように、ライトノベルでの学園モノにおいて、将来のことなど何一つ考えてなさそうなキャラクター達が、このまま行ったらどうなるのか、なんてことは、書いている側は敢えて気にしないし、楽しく読んでる側は気にしたくもない。いつの時代にも流行る、現代の少年少女らが異世界で旅するファンタジーも、本当に世界と世界が繋がっていたらいろんなことが大変になっているはずなわけで、やっぱりその辺も、作者はファンブックになった時に細かい所は考えるし、読む側もそれを考えるのは読み終わった後である。大抵は。多分。
考えるべき事を減らす、というのは、別に想像の世界に限ったことではない。それは日常の生活において誰でもやっていることで、遊んでいる時は仕事のことは忘れるし、宿題の大変さを忘れるために人は部屋を掃除するわけだし、可愛い声の声優が見た目も可愛いかを気にするかは人それぞれであって義務ではない。その減らされた「考えるべき筈のこと」が何であるかによって、実のところ、SFとかファンタジーとかライトノベルとか、そういう、大衆から見てなんとなくだけでも理解できるようなカテゴリ分けがされていて、まだその作品を読んでいない誰かに「これは面白いSFだよ」と説明して「わかった、読んでみるよ」となるか「ごめん、SFは好きじゃない」となるか、の判断材料の一端にされている、ような気がする、なんとなくだけど。
"文章で書かれた作品" を体系的に分類しようとして、そこで行われることの最初は「子供向け」と「それ以外」の作品分けに、まずはなるだろう。童話とか日本むかし話とか、例えばそういうのの特徴というと、「なんで動物が喋ってるのか」を考えていない、あるいは「神様とか仏様って何」を気にしていない、というのになる。これを続けていくと、ライトノベルというのは「少年少女があんまり大人の世界を知らずに、友情とか確かめながらあくせく頑張ってるけど、いいのか」とかをそんなに気にしていないでシナリオが進んでいくもの、というやり方で案外と上手くいく、んじゃないか、と、少なくともこれまで触れてきたライトノベルを読んでいて感じるわけである。
誤解して欲しくはないのだが、これはネガティブな視点で小説をカテゴライズしてみようとした、だけであって、決してライトノベルがネガティブな小説であると言っているわけではない。そうとしか聞こえないかもしれないけど、少なくともそう感じながらここまで書いたわけではあんまりない。むしろポジティブな意味で「細かいこと気にしないで楽しくいこうよ!」と、書いている側も読んでいる側も思いながらきっとライトノベルの世界に浸っているわけで、だから、相手の気持ちを深い所まで考えなくちゃいけない「恋愛」じゃなく、なんとなく気持ちが通じ合ってるし、悪人じゃない主人公に可愛い女の子がツンツンしたりデレデレしたりしてるのを見てれば楽しいじゃない、という意思で、ライトノベルにおける男女間のイベント=「萌え」が表現されるのであって、最近の女の子が出て来るゲームはシミュレーション形式ではなく選択肢の少ないアドベンチャー形式になっているのだ。きっと。そう、きっと。だから、「ニートノベル」の方が実際相応しかったんじゃないか、とか陰口を叩かれる前に、せめてシチュエーションだけではない萌えを見つけましょう、とか不可能に近いことを言ったところで、また近いうちに。
管理人。