0.
このエントリでは、セカイ系についての管理人の論説を述べる。
1. プリミティブな考え方
セカイ系とは、端的に言えば、
『登場人物らが世界のあり方に直に触れる(或いは触れたような気になる)ことのできる設定を持つ作品』
であると考える。古くはカフカの作品群があり、最も有名なもので言えば『新世紀エヴァンゲリオン』、そしてPCゲームでは奈須きのこ氏の『月姫』 『Fate/stay night』や田中ロミオ氏の『CROSS † CHANNEL』 『最果てのイマ』が思い当たる。(参考:
セカイ系[Wikipedia])
どの作品もテーマは違うが、登場人物らが通常ではできない、世界のあり方に触れる、という経験をしている。
しかし、この考え方では、セカイ系とは違うイメージである「剣と魔法のファンタジー」が含まれそうであるし、逆に『イリヤの空、UFOの夏』や『ほしのこえ』などは含まれなさそうである。以下、その点などに注目しながら、セカイ系について考察する。
2. カフカで考える「セカイ系」
読んだことのある人も多いと思うが、カフカの代表作に『変身』というものがある。これは、平凡な男性が、ある朝起きたら巨大な虫になっていた、という奇妙な始まり方をする作品だ。普通の人間が、いきなり虫になってしまう、そういう不条理な「世界のあり方」に、登場人物が直に触れている。
世界のあり方、とは、普通は触れることのないものだ。なぜなら、触れる必要がないからである。世界のあり方とは、天高く突き抜けている壁のように、あるいは底の見えない谷のように、そこに「ある」というだけで十分で、なんとなく見えていればそれだけで登場人物に影響を与える。高い所から物を落としたら地面にぶつかって砕けるし、朝起きたら昨日の自分の姿と同じままなのは当たり前だし、どこにでもある刃物で誰かの体をなぞっても十七個に分割できたりはしない。世界とはそういう当たり前のことばかりで構成されていて、通常の(セカイ系でない)作品では、そういったものを前提としてそこに設定をいろいろ付け加え、時には物理法則を多少いじったりしながらも現実と大差のないように世界観を構成する。
しかし、セカイ系では、当たり前のことが無視される。
それはどういった特徴と言えるのか。(※ 以下、
宝島の地図で昔あったカフカ紹介のコーナーを参考にした。現在そのコンテンツは無い模様)
例えば、上の作品では、虫になってしまった男は、これから何を食べようかと迷ったり、こんな体でこれまでと同じように働けるのかと悩んだり、今日来ていく服に困ったりする。そんな中で、決定的に大事なところを、男はまるで気にしないし、語り手も微塵たりとも述べようとしない。それは「なぜ男は虫になったのか」である。
どんな状況においても当たり前のことだが、目の前で起きた「普通じゃないこと」に対し、誰かが「これはおかしいんじゃないか」と突っ込む。そして「なぜ」を確かめようとするか、矛盾を見つけてこれはおかしいと結論付けようとする。漫才でも、常識とはかけ離れた「ボケ」に対し、それはおかしいだろうと「ツッコミ」を入れる。これがもし、ボケに対するツッコミがなく、画面外から聞こえてくる笑い声もなかったら、見ている側は「あれ、今のはボケじゃなかったのか? もしかして、正しいことなのか?」と思ってしまう。松本人志の一人コントで使われている技術がこれだ。故に、観る側のため、普通ならばツッコミがあり、笑い声が上がる。
要するに、目の前で起きた不可思議なことに対し、説明があれば「安心」できるのに、それをあえて省くことで「不安」を誘っているのである。
カフカの作品では、朝起きたら虫になっていて、そして何の説明もないまま話が進む。つまり、世界とはそういう風に出来ていて、人間では到底それを捕らえることなどできず、実は不安ばかりだ、というのがこの作品の表現しているところである。そして、その不安が、読者を惹きつける。
人間にとって、世界とは、到底理解できるものではなく、普段ならば遠くから眺めるだけで、それに触れずに過ごしている。しかし、何かの拍子でそれに触れてしまうと、途端にその存在に慄き、わからなくなる。わからないものとは、つまりは不安だ。お化け屋敷で次に何が出てくるのか分からない時のように、またはスリラーでこの先の展開が分からない時のように、或いは、行く先をまだ決めていない若者が身一つで旅に出る場面のように、不安は人を惹きつける。セカイ系の魅力の一つは、そのように不安が歴然とそこに存在している点である。
そして、それと同じような魅力を持つジャンルに、アニメやライトノベル、PCゲームで扱われることの多いジュブナイルがある。ジュブナイルとは、つまるところ、少年少女の未来への期待と不安だ。セカイ系の作品に、ジュブナイルとしての特徴を持つものが多いのは、これら二種類の不安を交代に作用させることで、或いはジュブナイル的な不安からセカイ系的な不安へ移行させることで、相互効果を求めた結果であると考えられる。
3. ファンタジーとの比較で考える「セカイ系」
セカイ系は、しばしば一部のファンタジーと混同される。剣と魔法の世界の設定でよくあるような、「異世界をいったりきたり」とか「神が作った空間に人間が入り込む」といった演出が、セカイ系によく出てくる「登場人物が精神世界で彷徨う」といった演出に似ている所以であると考えられる。確かに、ファンタジーの中にもセカイ系と区分してよい物もあるだろうが、ほとんどのファンタジー作品はセカイ系の特徴を持たず、これとは異なる。
上でも述べたが、セカイ系の特徴とは、世界のあり方に触れる不安である。
魔法が出てくるようなファンタジーの世界では、その魔法はたいてい生活に密着しているか、戦闘シーンで積極的に使われるものである。その起源から生成の過程まで全てについて、とはいかなくても、なんとなくながら魔法に関する学問があって、魔法がどのようなものであるか分かっている。つまり、魔法は十分に人間に近しいものなのだ。そして、その魔法を使って、世界と世界を行き来したり、神の領域に触れたとしても、セカイ系ほどは不安にはならない。魔法は既に研究されたり、誰かが嘗て使ったはずのものである以上、「ここまで踏み込んでも安心」というのが分かっている場合が多いからである。
要するに、そういった特殊な空間の考え方は、ファンタジーでは日常の延長でしかなく、一歩を踏み出すのはあくまでも人間の住む領域の側からなのだ。
セカイ系は、これとは逆である。
セカイ系における世界は、登場人物に対しそれこそ「襲いかかってくる」と言えるほど強烈なものであり、それが大きな「不安」に繋がる。『イリヤの空』の作者である秋山瑞人氏の言葉を借りれば、「恐ろしいものに対処する手段は二つある。腹を見せて仲良くなるか、襲いかかって叩き潰すか」となり、世界に触れた登場人物は、カフカの作品のように従順になるか、奈須きのこ氏の作品のように死ぬ気で戦うかの選択肢しかない。
4. 『エヴァ』で考える「セカイ系」
そのテのアニメの代表格である『新世紀エヴァンゲリオン』では、登場人物らが触れる世界のあり方が、目に見えるように具現化されている。敵として襲い来る設定の使徒がもちろんそれであるが、もっと主人公の近くにいた存在もあった。ミステリアスな雰囲気を持ち、人が溶け合って死ぬときに傍らに居、時には巨大化して終わる世界に横たわった少女、綾波レイがそれだ。
世界とは、表情を持つ。その多様さが、『エヴァ』のセカイ系としての魅力の大きいところであると考える。
登場人物が世界のあり方に触れたとき、それがただ無表情で彼らに何も与えないものであれば、セカイ系はセカイ系である必要はない。全ての「キャラクター」が、「相互に干渉し、何かを与えたり奪ったりする」存在であるから登場する意味があるのと同じように、セカイ系における世界は、触れた時に何らかの反応を示す必要がある。
例えば、先ほどの作品で言えば、普通の人間が巨大な虫なってしまう、そういう薄気味の悪いことが、カフカ演出による世界の『表情』である。「朝起きたら、姿が変わっていることが稀にある」というのが世界のあり方であったとしても、別にそれは犬でも猫でも爬虫類でもかまわないはずである。しかし、世界は「虫にしちゃえ」を選んだ。
『エヴァ』では、世界の一部は少女の姿をしていた。もちろん、物語がクライマックスへ進むまでは普通の(なんだか電波的な)女の子のキャラクターとして動いていて、ミステリアスな空気に包まれた魅力的な存在として主人公の近くに居たが、別の『世界の表情』である後半の使徒らの出現によって変貌し、少女は世界の側の存在として主人公に襲い掛かったわけである。
セカイ系とは、要するに、世界をキャラクターの一つとして扱おうとした、非常な冒険作なのである。
5. 『イリヤの空、UFOの夏』で考える「セカイ系」
『イリヤの空』 や 『空の向こう、約束の場所』、『最終兵器彼女』 など、少年少女が世界の運命を握るような作品が、セカイ系に分類されることがある。これは、先ほどの定義に従うとすれば、セカイ系には分類できないような気がする。
『イリヤの空』 では、SFは多少入りながらもあくまでも現実の世界として話が進み、いきなり精神世界に入り込んだり、何かの表紙でありえないことが起きたり、といった場面はない。『最終兵器彼女』 も、最後には主人公ら二人しか残らない世界に入り込む場面はあるものの、世界のあり方に触れてどうの、という演出は見られない。
これは要するに、重複になるが、「年端も行かない少年少女らが、世界の運命を握らされる、そういう設定だけでセカイ系に含まれる」と言える、ということである。
これまでの考察を逆説的に繋げてみれば、それが分かる。
まず、2. の「どうしようもない不安」だが、これはこれらの作品に十分含まれている。まだ自分のことすら決められないような年齢なのに、世界の行く先を押し付けられたら、誰だって不安にならないはずがない。
そして、これも重要なのだが、これらの作品では大抵、世界を滅ぼそうとする「敵」が具体的にどのようなものであるのか、何故か語られない。『イリヤの空』で言えば、なんとなく宇宙の敵で、女の子が戦闘機に乗って戦わなくてはいけない、というだけで、具体的に「何をすれば」「どうなって」世界を救えるのかはさっぱり不明なのである。これはつまり、セカイ系における3. の世界の特徴のように、「なんだかわからない不安」であり、結果、ジュブナイル的な演出と結合しやすい。
また、4. で述べた「表情」は、これら作品では「(誰が原因かわからない)戦争」となる。ガンダムなどの、戦争している時代を舞台にしたの作品では、具体的に「誰が」戦争を仕掛けて、「何が」原因であるかは、少なくとも物語の終盤では分かっている。故に、誰を恨めばいいか、何を憎めばいいかはわかりやすい。それに対し、上記の作品では、戦争とは「ただ襲ってくるもの」であり、それが世界の表情となっている。
5. 『月姫』で考える「セカイ系」
『月姫』の世界で、主人公は冒頭からいきなり世界のあり方に触れる。セカイの脆さを知り、そこから逃げ出そうとするが、既に世界のあり方に触れた経験を持つ人物に出会い、世界のあり方に対処する方法を教えられる。そこで『世界というのは実は、そこに立っていられないほど不安定なものである』というテーゼに対し、『たとえ世界が不安定でも、自分がしっかり立ればどうということはない』というカタルシスが述べられ、(テーゼとカタルシスについては
こちらのエントリなどを参考に)ここで一度、起承転結は済んでいる。
そして、場面は変わって主人公が学生になった時、普通の人生を送れるはずだったものが、伝奇的ストーリーらしく突如として全く別モノの世界に放り込まれる。主人公の一人語りで世界のテーゼが語られたり、対処のしようがない程の強大な敵が現れたりしながら、ストーリーは進んでいく。
カタルシスがキャラクターの主張や行動で語られるものならば、テーゼとは世界にくっついているものである。普通の(セカイ系でない)シナリオなら、世界にくっつくテーゼは一つか、複数あったとしてもシナリオに沿って組まれている。
しかし、『月姫』では、主人公は様々な世界のあり方に、乱雑な形で触れる。それは、いきなり見ず知らずの誰かを「殺してしまった」恐怖や、日常的な光景の中に大勢の人を殺せる力を持った誰かが「潜んでいる」不安定さや、自らの身体にどうしようもなく「襲い来る」痛みであり、それぞれのテーゼが組み込まれている。
シナリオを作るなら当たり前のことなのだが、そこにいくつかのテーゼを組み込むとしても、ストーリーに沿わずにポンと無闇にテーゼを出したら、その時点で読む側は付いて来れなくなる。
その点はもちろん、セカイ系でも同じは同じなのだが、『月姫』のようにストーリーに巧みにセカイを組み込めば、テーゼはそれについてくる。そしてその分、シナリオの最大の魅力であるカタルシスが大いに語れる。要するに、セカイ系とは、作り手の技術によっては通常よりも遥かに多くのテーゼを表現することができ、それに対応するカタルシスもより深く、また場合によってはそれまで訴えることができなかったカタルシスを組み込むことも可能となる型であると考えられる。
6. 『CROSS † CHANNEL』で考える「セカイ系」
『CROSS † CHANNEL』は、セカイ系をより高度な技法で実現していると考える。
いわば、セカイ系へのアンチテーゼだ。
この作品は、間違いなくセカイ系に分類される設定でありながら、これでもかとばかりに現実主義に走っている。先ほどのカフカの作品のように、ありえないセカイに入り込みながらも、目の前に迫った普通な問題ばかりを解決しようと主人公は足掻く。過去の愛憎の混乱に頭を悩まし、パンの賞味期限が切れないかを心配し、誰かが死んでいたら冷静になって犯人を見つけようとする。そして、それと同じように、掴み様が無い世界のあり方とも死ぬ気で闘う。
セカイ系なのに、敢えて現実に迫った作品であり、新たな可能性を示した。
7. まとめ
以上が、セカイ系に関する管理人の見解である。
まとめると、セカイ系とは「通常ならば遥か高い位置にある "世界" の目線を敢えてキャラクターの位置まで落とし、時には表情を見せ、時にはキャラクターの動向によって様変わりし、キャラクターに直に影響を与えようとさせる」ものである。そして、それに対するアンチテーゼが生まれる以上、むしろ可能性は無限大にあり、発展に期待できると考える。
管理人。